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閑話究題 XX文学の館 体験記録 相対会

「相対レポートセレクション」
解説校異


前回「相対レポートセレクション」の解説に思うで同シリーズの解説に於ける書誌の杜撰さを一部指摘したが、今回当館所蔵の「相対会研究報告」の原本展示(特別展示期間が終了したため、現在は展示していません)を行うことに伴い、同シリーズの解説を総て読みなおし、間違いや疑問点を総ざらいした。前回のように感情的にはならず(大丈夫かなぁ…)、事実関係(一部館主の推測が入るが)だけを述べる。相対論、或いは小倉清三郎論は色々あって良いと思うが、間違った前提を基礎にした論考は何の意味もなさいので、これらの指摘は多少でも資料を所持している者の責務と考える。折角「相対」を無削除で刊行しているのであるから、少なくとも事実関係だけは正しておきたい。

同シリーズの第二期がどうなるのかは分からないが、二度と同じ愚は繰り返して欲しくない。切に希望するものである。尚、「相対」の詳細に就いては、相対異聞(改訂版)を参照され度。


田原安江(1998年9月)

前回ほとんど書いてしまったので、その時点で確認できなかったものを追加する。

まえがき(21頁)
『その他にも、原本「相対」は初め、心理学教科書のように横組みで始めたものを、どの時点かで縦組みに変えて継続したなどの事実もあり、例えば前記合本「相対(第一年第一集〜第十二集)」では初めの頃の横組みが総て縦組みに印刷し直されている。』

第五、六集は縦組、おそらく活字化された第三集、四集も縦組であったことが以下の文章から想定できる。

『先頃、第一年の第一集、第二集を縦組に改めて印刷しましたので、之までの方々に、改めて御送り致したのですが』

出典は【復刻版】の二十九号。復刻されている第十三集と一緒に、「大正五年二月」、「三月」、「五月上旬」の見出しで『相対会便り』が三通載っているが、この「三月分」から。


まえがき(43頁)
『論文は復刻版全三十四巻中に十一本、筆者は清三郎だけだったが、あとにミチヨも一本だけ』

清三郎の論文は三十二編(他に未復刻四編)、これにはエリスなどの翻訳分も含む。 『閨の御愼みの事』などは本来参考に入れるべきとは思うが、【復刻版】では論文に分類されているので、そのまま従った。 他に『赤い帽子の女を中心として』が「某々生」の名前で第九号〜十二号に論文の部として収載されている。


まえがき(44頁)
『資料」だが、全部で大小九十四グループ(九十六手記)、記録者の数四六人で、うち二人は清三郎(手記六本)ミチヨ(手記四本)である。 いちばん多くの記録を寄せたのは筆名、都人生(九本)で、ミチヨ以外に女性の筆になる記録が少ない(三本?)のは、「相対レポート」=〈前近代〉(!)の感じである。』

資料数は百二十七編(他に未復刻五編)ある。但し、雑誌時代のものをどのように数えるかで数は異なってくる。 雑誌に掲載されたものでも、初期雑誌の復刻前(第二十三号以前)に論文または資料として収戴されたものははっきりしているが、そうでないものをどのように扱うかは個人の主観に依ってしまう。 また、論文中に引用された手記や、清三郎によるエリスなどの翻訳ものをどうするかも問題である。稀に、目次は資料で本文は論文、或いはその逆、参考と混同しているものもある。ただ、それらを勘案して、最低限に数えても九十六編は少ない。

資料に分類される清三郎のものは八編(【復刻版】で数えると九編になるが、内一編は論文が至当と考える)。 他に、清三郎、ミチヨに各々一編ずつ未復刻の資料があるが、「避難宿の出来事」でもう少し詳しく述べる。

資料だけを見ると小倉夫妻を含み仮名が四十五名(他に未復刻資料に一名)、雑誌時代にイニシアルで登場しているのが六名、他に無名氏一名、無記名の資料が何編かある。ちなみに、参考には仮名で別の六名が寄稿している。


避難宿の出来事(1998年12月)

解説(226頁)
『資料篇の記録…略…清三郎六編、ミチヨ四編』

他に、復刻されてない資料が清三郎の『ノートの中から』(目録は『中より』)、 ミチヨの『私の春的生活の中から』の二編ある(原典の目録を参照)。 但し、『私の春的生活の中から』の一部分が『性的経験概論』に引用されていることを最近確認した。 また、同じく引用されている『親子の縁』の一枚目(前書きにあたる)が引用されていない、つまり、復刻されていないことも分った。 〈「相対」異聞(改訂版)〉は一目でおかしいと分るものを中心に書いたが、今後は確認可能な資料だけでも、もっと綿密な調査が必要になってきたことを実感している。

略…陽炎氏、会員中最多の寄稿者(十二編、うち一編は共同執筆)となった。また浮舟生氏は、「都人」氏(九編)についで多い六編の記録を、研究資料になればと、書いている。』

「陽炎」の資料は確かに十二編であるが、参考として『春画の題材帳』(【復刻版】の二十三号〜二十五号)があるので、相対への寄稿数は十三編である。 所で、一番多くの記録を寄せたのは「都人」ではなかったのか。「赤い帽子の女」にまとめて記述する。


忘れ難き二十二歳の娘(1999年3月)

女百態(222頁)
『(1)普通他者関係の記録は、誰が(どういう人が)いつ、誰と、どういう経緯、相関関係の中で出会い、どうして、その行為関係の一体にくるまれることになったのか、というかたちで綴られる…略
『(2)しかるに、この手記においては、最初の小夜子から最後の浜子まで、なぜ彼女が情交の当事者A氏の、情交という行為の」

場所や時間、そうなった経緯など

『実在の存在証明となる現実の項目が一切語られていないか、消されている。』

確かに、多くのものご指摘の通りではあるが、「小夜子」に就いては概ね状況は書かれているし、「はつ子」に就いてはこれ以上は詳しくは書けないのではないか。受け取り方の問題かも知れないが…。 そのままで発表するのが適当かどうかに就いては何とも言えないが、『A氏が…略…別に抜き書き日記を作り』暗号文字で書いていたものを、 『普通文字に書き直したまゝのものを出した』と記述してあるように日記の一部なので、他者関係ではないと思うが…。


女百態(224頁)
『「女百態」は、復刻版では第一号〜二号に出ているが、いろは氏が誰か、彼のどういう意思の産物かを調べようにも、いろは氏の手になる記録、手記類は他にはない。』

『A氏の日記の一部』が同じ「いろは」で第一、二号に載録されている。こちらは月日がある日記のままで、主に『女百態』に登場した君子を中心にしたものである。日記はA氏のものなので、「いろは」のことに就いては何も分からないが…。

尚、原典の目録にある「いろは」の『某氏の日記の一節』及び、『某氏の日記の一節のつヾき』がこの『A氏の日記の一部』であるが、【復刻版】の清三郎の解説、及び『女百態』の内容からは、『女百態』の後に『A氏の日記の一部』が発表されたようにとれる。しかし、『某氏の日記の一節』に先行する資料に『女百態』に該当する資料は見当たらない。何故であろう?


女百態(225頁)
『A氏にしろいろは氏にしろ、これは漁色日記であろうか、あるいは仮装だが、二十一回の結婚・その性日記なのであろうか?あるいは芸者置屋主人、売春楼主人等による非道な、使用者への特権行使の、いまでいうセクシャル・ハラスメント的行為の全貌を、日記から、あるいは日記からという形で誰かが記録・聞き書きなどしたものであろうか?』
『後世の読者や研究者や第三者のために、事実の輪郭を特定するような配慮を何らしておらず』

うぅん、困った。漁色日記ではあろうが(だから暗号化している)、仮装と言えば何を言っても良いと言う訳ではないと思う。 文中に『以上は皆所謂堅気の素人ばかりである。』と書いてあるのに何で売春楼主人が出てくるのか…。 『A氏の日記の一部』の解説で、清三郎が『今度のには純粋の素人でないものも出てゐます。』と述べている点からも、そこまで飛躍して良いものであろうか。 そもそも、本人にとって既知であれば、普通日記にそのような第三者的な記述をするだろうか。それを確認するのが清三郎の役目だ、というのは分からないではないが…。


女から挑まれた経験(1999年5月)

解説(225頁)
『原人生氏には…略…残念ながら「相対」中に、彼はこの一手記しか寄せられなかった。』

少なくとも【復刻版】にはもう一編、と一旦は書いたが、「暗色の女の群」の解説に書かれていたので、そちらにまとめた。


S−とその情婦(225頁)
『少し年上の友人である古本屋主人Kとの間の男女(あるいは夫婦)交際観の相違を』

これは誤植であろうが、「K」ではなく「S」である。タイトルもそうなっている。


赤い帽子の女(1999年8月)

解説(239頁)
『「都人」氏が、「相対・資料編」の最多の寄稿者であることはすでに何度も紹介したが』

どうも良く分からない。最多寄稿者は「陽炎」?「都人」?。普通に考えれば「避難宿の出来事」で解説しているように、十二編(他に参考一編)の「陽炎」の方が九編の「都人」より多いのではないだろうか。

実際には、「都人」は十六編の資料を提供している。 何を持って一編とするかの数え方の違いであるが、『生活断片』と題する「都人」の記録が【復刻版】では第二十一号〜二十三号の三回に別れて収載されている。 第一回は日記風の本文だけであるが、第二回と第三回には合計七編分の小見出しが付いている。この三回分を一編とすると九編になり、八編と数えれば十六編になる。十六編とすれば確かに最多である。 原典の目録を見ると、『生活断片』は四回に分割、第二回、三回掲載分は各々その題名で記述されており、公表時期もバラバラである。 これを一括りで『生活断片』としたのは、【復刻版】の編集であろう。 但し、これは【復刻版】を見ただけでは判断が出来ないことなのでやむお得ないか。 尚、「都人」には【復刻版】には未収載の『種々なる人々』という報告がある。そうすると、合計十七編になる。


それからそれ(1999年11月)

始めて見た世界(238頁)
略…サインが MASAGO とローマ字綴りなのは、どうやらこれ、主宰者の小倉清三郎が、…略…、それを自ら聞き書きにしたということから、 その「聞き書き記録」を示す暗号としてのローマ字書き。』

論旨の根拠が良く分からないが、MASAGO というローマ字綴りは二回使用されている。一回目はこの『始めて見た世界』、 もう一回は『土曜日の午后に就いて』【復刻版】では「『土曜日の半日』に就いて」)、である。 少なくとも二回目の『土曜日の午后に就いて』という短文は聞き書きとは思えないが…。


閨の御慎みの事(240頁)
『「閨の御慎みの事」と「夫婦生活」とは、復刻版では前者が「考証参考」、後者が「論文」に分かれたため、最初は合体予定で発表されたのに、途中で離れてしまっていた。しかし、本シリーズでは、編集部が再び本来の連続論文としてまとめた。 …略…(復刻版では「閨の御慎みの事」は第27号、…略

『閨の御慎みの事』は、【復刻版】第十四号に『利己主義と夫婦生活』(第十三号〜十七号)の参考資料として論文中に全文転載されている。 この論文の後、第十八号から『夫婦生活』が始まっている。従って、特に分離している訳でもなく、【復刻版】としては妥当な編集のように思える。 むしろ、元々論文と一体であったものを分離して別の論文に繋げている方が、本来の姿を壊しているように思われるが。 尚、第二十七号収載分は初出、つまり【相對】第七集の復刻のことである。

この後、【相對】第七集に掲載された『閨の御慎みの事』と、 高橋鐵が「日本性典大鑑」下(日本生活心理学会、昭和二十九年十月)で載録したそれとの比較を全文を掲げて行っている。 このこと自体にはなんらコメントすべきものはないが、次の疑問が湧いてきた。

実は、【復刻版】には、第二十号に参考品として「玉手箱」が掲載されており、この内容が『閨の御愼の事』である。 同文九箇条の他、『常の御心得』二箇条、『朝夕の御心得』八箇条も付いている。 つまり、『朝夕の御心得』を除けば、多少の異同はあるが高橋本と同じである。 これが何時の原典に採用されたものかは不明であるが、本来なら【相對】第七集に掲載されたものとの関係とか入手経緯などがコメントされていても良さそうであるのに、 何のコメントもなくポツンと掲載されている所から見ると、原典に存在したのかどうかは怪しいと言わざるを得ない。【復刻版】に対する新たな疑問を間接的ながらも提示した、という点からも、この指摘は有り難い。


閨の御慎みの事(246頁)
『もし、この「小倉版」こそが、「閨の御慎みの事」のオリジナルであるとしたら』

清三郎の前書きに、『私が手に入れたものは幾度目の写しか解らぬものであった。』とあるように、相当回数書き写されたものと想像できる。 そのような状態でどれだけオリジナルな部分が残っているかは何とも言えないが、例えば、冒頭の『御色気薄きは慎みなく』は普通に考えるとおかしい。 むしろ、高橋版のように『御色気薄きは情なく』が正しいように思える。もちろん、小倉版の方が原形を残しているであろうと思われる箇所もある。 混乱を招く原因になったとは言え、もう一点収載されている『閨の御慎みの事』を含め、三者を比較することにより新たな展開が期待できるかもしれない。


夫婦生活(250頁)
『当時はまだ春的(解説ずみ=来栖)と云ふ言葉は、出来ておりませんでした。』

書かれているのは『春の営みと云ふ言葉』、春的と言う言葉は【相對】第一集から使われている。解説者の括弧書きが付いているので明らかな誤読である。


夫婦生活(251頁)
『実は彼(なのか、「会」自身なのか)清三郎は、この自己手記の始まりから(三)まで、当の性的記録の対象の夫婦は、まるきり、自分らとは無関係の某夫婦のごとく、表記も――夫妻とするのみならず、論文中にその記録を収録して諸解説をするときにも、二人がまるきり、自分たちとは他人のごとく書いている。読む方からすれば、――夫妻とはどうも小倉夫妻自身以外ではありえぬ状況かですらも…略
略…読む側がほとほと疲れ切った巻末で、ようやく――夫婦、実は自分ら夫婦とのタネ明かしをして、しかもケロリとした顔に見えるのだ。』
『はたして、会員が…略…「そのように客観化する」ルールを知っていたから平気だったのか、…略…論文の最後まで、途中でなぜ自分ら二人を――夫妻で通したのかの説明は、ほんのひとことさえ洩らさぬのだ。もちろん、匿名に意味があったのならでは最後までなぜそれで通さないのか、清三郎にそのことの方の説明もない。』

だから清三郎は『頓珍漢である』と言う見解である。

解説者も引用しているが、この論文の巻頭に

『大正五年十二月以降、三回に分たれて報告された…略…(一)(二)を報告した頃は、私は未だ結婚前でした。』

とある通り、(一)の初出は【報告】大正五年十二月号である。 【復刻版】では大正六年四月発行になっているが、少なくとも前年の十二月には出す予定でいたはずである。報告も当然それに間に合うような時期に書かれたものである。 清三郎の説明では

『会員――氏は、私のために、交接を主として、その夫婦生活の一面を、十日の間随分詳しく記録して下さった。』

『記録は、この人々の夫婦生活の第二年目の第八日目から始まってゐる。』

と書かれている。また、この論文の全体は(一)から(三)の三章から成り立っているが、この(三)で

『私共夫婦もついこの頃までは、最も多くこの形を用ひてゐた。…略…モットモット私共に適した一つの形があることに気がついた。その時の記録を左に掲げる。』

のように述べ、『私の記録から』のタイトルで自身とミチヨの記録を書いている。 素直に読めば(一)と(二)にある記録の部分は会員――氏(当然匿名)の報告、(三)は清三郎自身の記録、ととれる様に思うのだが。 そこで、記述されている年代を検討すると、夫婦生活の第二年目であるなら会員――氏夫婦の生活が開始されたのは大正四年であろう。 翻って、清三郎とミチヨが結婚したのは大正八年六月十五日であるとミチヨ自身が「相対会の栞」で述べている。 試験的婚約期間なるもの一年(実際の期間は一年も無かったようであるが)を差し引いたとしても大正七年である。諸資料の記述からもミチヨが上京してきたのが同年であることに間違いはなさそうである。 大正七年に初めて逢った者同志の記録が大正五年に書ける訳が無い。結論は、会員――氏と清三郎は別人である。従って、他人の記録を他人のごとく書いてあるのは当然である。

尚、タネ明かし云々は、後書きの『右の(一)(二)は私の未婚時代に書いたもの。』のこと言っているのであろうと思われるが、 これは『夫婦生活』という論文の(一)(二)を書いたことを言ってるのであり、中に転載されている記録の『夫婦生活の十日間』のことを言っている訳ではない。


女流楽人の追憶(2000年2月)

聯想の媒介による春的刺激の増加(246頁)
『最後の小倉の論文「聯想の媒介による春的刺激の増加」は、本来、「論文」の第一巻から第十巻にまとめられた大部の論文「性的経験概論」の一部であり、これそのものは復刻版の第34号に収録されたのだが、なぜ、今、この一章だけが突然、ポツンと本巻末尾に載ることになったのか。

編集部のしていることは分らないと続く。

『あるいは、元々の初期「相対」では、前記の「子をほしがる女」が夫の勃起不全をも訴えていることから、…略…特に壮年以降の夫婦には効果のあることを親しく彼女に教授しようとしていたために、この論文が併行して置かれていたのかもしれない。』

編集部の意図は館主にも分からないが、【復刻版】に載っている『性的経験概論』はその総てが復刻されている訳ではない。 発表順からいえば、この『聯想』が最初、このすぐ後に四編をガリ版で頒布(原典の目録参照)、復刻された部分はさらに後になって発表された分である。 『聯想』が発表された時、『子をほしがる女』はまだ影も形もなかった。


暗色の女の群(2000年5月)

解説(249頁)
『「原人生」氏は、本シリーズ第四巻に「S――とその情婦」が紹介された。彼にも、本巻所収分のほかに、もう残る手記はない。』

「女から挑まれた経験」で一手記しかない、と解説した根拠は何だったのだろう。結局、資料の総数は幾つだと言うのであろうか。前巻まで記述していた資料の総数が、当巻以降出なくなった。

尚、「原人」にはこの他に、復刻されなかった資料『女の衣裳と春的経験』がある。 但し、原典の目録で原人生となっているのは『S − とその情婦』のみである。 『曇った日の断想』と未復刻の『女の衣裳と春的経験』は「原」としか書かれていない。 目録にはこの三編が連続して載っているのと、復刻された『曇った日の断想』を「原人」としてあるので、同一人物と見るのは問題無いであろう。


彼女と彼(2000年9月)

彼女と彼(229頁)
『たとえば「彼女と彼」が、筆者無名生、とはどういうことか。筆者不詳とか、そのペンネーム化(匿名化)とか、…略…ただ無名生とだけではその無名の意味がわからない。』

【復刻版】の扉にも本文にも「無名生」とは書かれていない。無記名である。唯一目次に「無名」と書かれてはいるが、これは報告者の名前を逸した、或いは秘した、という程度の意味ではないだろうか。 どこから「無名生」などという名前を持ち出してきたのであろうか、と考えていてふと思い当たる節があった。早速確認したところ、確かに「無名生」と書かれてあった。

前回、何度も【復刻版】を本当に見たのか、とかなり感情的に糾弾したが、その疑問も氷解した。底本が違うのである。昭和二十七年の小倉ミチヨ自身による【復刻版】ではなく、その【復刻版】を再復刻したものが使われていたのだ。 館主の知る限り再復刻されたものは二種類存在するので、どちらを元にしたのかは不明であるが(編集方針の違いはあるが、内容は一緒)、どちらも内容を知る程度であればほどんど問題ないが、論考の基礎資料、書誌研究には使えない代物である。 【復刻版】に復元されている別丁の地図や、初期【相對】の表紙(従って、社告なども)や奥付部分、及び復刻に当たってミチヨが配慮した状況などが総て省いてある。 また、奥付に於ける刊行年月(出版物ではないというたてまえから印刷日、としか書かれていないが)も、第四号以降は総てデタラメである。 その他、第三回の 〈とほほな「相対」再復刻版〉「相対」異聞(改訂版)〈4−3−1.[唄に於ける春的要素]の番号のズレに就いて〉補記 で既に述べたような点も気になる。 この件も、目次には書かれているのだから、と良かれと思って追記したのであろうが、小倉清三郎論、相対論を考察する上では余分な情報を与えて混乱させているだけである。

尚、「無名氏」としてあるものは資料に一編(【相對】第九集『恋愛と陵辱』【復刻版】十三号、二十七号)、 参考に一編(『吉田御殿』、【復刻版】十八号)あるが、同一人物ではなく名前を秘したいだけのもので、別人と推察される。


百合子(2001年1月)

解説(261頁)
『なにしろ、「陽炎生」氏が「相対会」への「資料提供」では一番(十二回)』

結局誰が一番。


百合子(262頁)
『そして、あまりにも尻切れとんぼのなかなのに拘らず、末尾には堂々とした「終」の一字が刻まれる。…略…得に、記事末が、明らかな〈未完〉状況でありながら、なぜ、小倉は(あるいは筆者は)、ここに恬然として〈終〉の一語を入れ、しかもなぜ、この奇怪に一言の注釈もないのか?…略…ほんとうに、世の中(というより、小倉清三郎)、わからなさすぎまいか。』

この中途半端さの解説を想像のみでするのは困難であろう。実はこの『百合子』は昭和十九年一月に頒布が始まり、四月で終わっている。「相対」関連の解説に詳しくて感の良い人ならピンと来よう。 そう、これは「相対」の幕を引くことになる最後の頒布資料なのである。つまり、「相対」そのものが継続不能になってしまったため、未完のままで終わってしまったのだ。従って、原典に「終」の一字は無く、復刻時に強引に付加されたものである。 このこと自体は誰が悪い訳でもなく、時代が悪かったとしか言えないが、問題があるとすれば、(解説者も述べているように)一言の注釈も入れなかった復刻版の編集者、最終責任者であるミチヨと言えそうか。清三郎も筆者も預かり知らぬことである。

この最終頒布(昭和十九年四月)の対象となったものには他に『暗色の女の群』『上海にて』『春画の題材帖』があり、 『上海にて』以外はいずれも中途のままであるが、【復刻版】には完全な形で復刻されている。 では、『百合子』は最初から未刊のままで、全体を知ることは不可能なのであろうか。 以前〈小倉清三郎没後の「相対」〉で清三郎没後の頒布資料は過去に頒布したものの再配布が多いことを述べた。理由を幾つか推定したが、その中にもう一つの推測を加わえるべきかもしれない。 清三郎没後、或いは晩年には既に始まっていたのかも知れないが、ミチヨは過去の「相対」の復刻を試みていたのではないか、と言う推測である。それならば同じ資料を再頒布した説明も付く。 ここではこれ以上詳しくは述べないが、そうであるならば、それ以前に頒布された『百合子』の元資料があるのではないか、との予測も可能である。あくまでも可能性であるが…。


或る正月の日記(266頁)
『各記録の復刻版中の所在を確認しておこう。…略…「或る正月の日記」第13〜14号』

これは単なる誤植であろう。その前の『階上の音・隣室の音』と同じになっている。正しくは第28号である。


冷静にとは言いながら、相当気負い込んで書き始めたのだが、底本が異なることが判明して困惑してしまった。 問題の多くが解説者本人の勘違いや見落としではないであろうことは分かったが、特に否定的に力説されている部分の根拠が底本のいい加減さからきたものだとすると、非難もできず、かと言って容認もできず、……困った。 少し苦労すれば手に入るような資料であれば何故その努力をしない、と糾弾するのだが(実際資料があると思っていたので前回は糾弾したのだが)、相手が「相対」ではそれもならず、うぅむ……。振り上げた拳が……。

どうしても資料数が気になって仕方がなかったのだが、もう一点、総目録を記載してあるものを思い出した。雑誌【えろちか】の臨時増刊『性探求の金字塔《相対会研究報告》』(三崎書房、昭和四七年六月)である。 巻末に『「相対」復刻版総目録』というのが確かにある。しかし、シリーズ冒頭の『まえがき』で同誌を詰問していたのと、この総目録は使えそうで使えないものなので、思いも及ばなかったのだ。 これで数えれば、確かに資料は九十四編である。但し、九十四グループ九十六編とする根拠は相変わらず分からない。 『まえがき』で初期【相對】第二集の刊行日付が空白であるとか、どの総目次(復刻版、再復刻版、「大正昭和 艶本資料の探求」〈斎藤夜居、芳賀書店、昭和四十四年1月〉)にも載せていない(実際には存在する)詳細不明の『判決文』とか言っていた理由も氷解した。 『原本全冊子総目次』と記述した理由も推測できる。この『総目録』は初期の雑誌部分を分離して、論文でも資料でもない分類に区分けしているからである。

しかし、この雑誌時代、論文、資料、参考の分類の仕方は、雑誌中に掲載された論文や資料が各々のカテゴリーから落ちているため数が合わなくなるなどの弊害が起きる。 また総目録であって総目次でないため、一箇所脱落すると確認できないまま(総目次の場合前後関係から不審な箇所が判明することもある)無かったことになってしまう。現に記載されていないものが何点かある。

底本は異なっても、タイトル数だけでも自分で数え直してほしかった。もう少し確認作業に労をいとわないでほしかった。そうすれば必ず矛盾にぶつかったはずである。それが学問でしょう。

今回「相対レポートセレクション」の解説を校訂するという形を取ったが、不透明な部分がまだまだ多いことを改めて痛感させられた。従来あまり疑問に感じていなかったことでも、今回の確認作業で重要なポイントであることを示唆された面もある。 その意味でも見直すきっかけを与えてくれた「相対レポートセレクション」の解説者には大いに感謝している。今後の作業が増えてしまったが…。

最後に一つだけ。報告者名の「都人生」や「黙陽生」を、「都人生」氏、「黙陽生」氏とするのはやめて欲しい。基本的には呼び捨てで構わないと思うが、氏を付けるのなら「都人」氏、「黙陽」氏が妥当かと…。


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