当館を通じて知己を得ることができました発禁本、地下本の蒐集家であるM氏の御厚意により、昭和八年に中断していた「相対」が再開される昭和十二年二月以降、昭和十九年四月の最終までの発行目録を入手することが出来ました。この目録により晩年の「相対」の姿がかなり見えてくるようになり、今回改訂版を公開する運びになりました。ここに改めてM氏にお礼を申し上げます。
誤字脱字を含む細かい修正は多々ありますが、前記の目録などの検討から全七章であった構成を全面改定、第二章と第三章を相対の歴史と書誌的な内容に、第四章を戦後復刻版の再検証とするなど、全五章構成に再編しました。内容も第一章の『概要』と第三章の『ミチヨ時代』は全面改定、第四章の『復刻版の検証』には大幅な追甫を行いました。本論は「異聞」と題しましたように、従来定説とされていたものを、新資料などを元に再検討したものです。しかし、「相対」の総てが公開可能な状態になった(公開されている訳ではない)現在では、逆に深い検討がなされないまま各論が飛び交い、「相対」の常識すら怪しくなっているようにも見受けられます。本論がそんな状況を解消するための一助になれば幸いです。
その後八月(平成十三年)の中旬に当館所蔵分以外のガリ版時代の「相対」(写本を含む)を目にする機会を得ました。蔵印等から元の所有者は斯界でも著名な人(故人)と推定できましたので、価値のある資料と言えます。内容の調査や検討は現所蔵者が行って発表する旨の発言をされていますので、楽しみです。更にこの改訂版を公開する直前に、初期雑誌【相對】の中で抜けていた第三、四集合本も手に入れました。昨年の五月の当館開館当初から「相対」に就いて色々と書いてきましたが、それが呼び水になったのか(勝手な思いこみです…)、今まで沈黙していた新たな資料が次々と現出してきているのは喜ばしい限りです。停滞していた「相対」研究が一気に進む可能性もでてきました。
先の原典の所有者から、調査結果を公表する旨の連絡が来ました。かって、自ら刊行していた「シンプル・リポート」を復刊、記念号として原典の初出時期を検証した『相對報告初出大年表』と題した特集号を出すそうです。本小論と併せて一読することをお薦め致します。興味のある方は、「シンプル・リポート復刊案内」をご参照下さい。('00/12/23追加)
発禁本というジャンルのコレクションを始めた時「相対」という言葉は何にもまして魅力的な響きを持っていた。全貌を見極めることは全く不可能であり、その一部に触れることさえ夢の又夢であった。戦前の原典はおろか、戦後に刊行された復刻版でさえほとんど存在しないとまで言われており、駆け出しとしては初めから諦める以外の手だてが無かったのである。従って、各雑誌、単行本の解説を初め、先達の残してくれた資料だけが「相対」への唯一の窓口であった。
ところが、近年到底有り得ないと言われていた復刻版の復刻も何点か刊行されており(再復刻版には問題が無い訳ではないが…)、現在では、公刊されている資料さえある。再復刻版が摘発されたと言う話は聞かないので、(何部発行されたのかは定かでないが)今や伏字無しでその内容を知ることが出来るような世の中になってしまった。このような現状から「相対」に対する或る種近寄り難い神秘的なイメージが薄らぎ、総てが解放されたが為に、何もかもが公になったかのごとき印象を与えてまったのは事実であろう。
しかし、一見明らかになったと思われる「相対」にもまだまだ興味の尽きない問題が残っている。それは、原典の入手により初めて疑問点として顕在化したものもあれば、復刻版の内容だけからも疑問点として挙げられて良い筈だが、過去に問題になっていなかったものもある。それらの内、今までに問題点、疑問点として挙げられていなかった(と思われる)ものを何点か掲げて見る。
原典の総てが手許に有る訳ではないので、これらの疑問点に対する回答が得られるのか、或いは何処まで掘り下げられるのか、甚だ頼りないが、先ずは第一歩を踏み出してみる。
始めに「相対」全体を概観し、その時々の運営状態を元にした区分化を行う。併せて、今まであまり気に掛けられることもなかった世話人という制度、第一組合という組織に就いても触れてみる。
大正時代の初期、東京帝国大学(現東京大学)の哲学科に籍を置いていた小倉清三郎はハーバロック・エリスの「性の心理」に啓発され、性に対する研究を始めると共に、研究団体である「相対会」を起こした。さらに、機関誌として大正二年一月に雑誌の形で【相對】の刊行を開始する。後に、「相対会研究報告」として知られることになる、性に関する論考や性体験手記を中心とした膨大な資料集の船出である。
当初は清三郎一人で仕切っていたが、後には世話人を置き、執筆以外の作業を担当させる体制になっていった。最後の世話人となったミチヨがその仕事を手伝うようになり、二人は結婚、以後、官憲と戦いながら、二人で苦難の道を歩むことになる。昭和八年一月から昭和十一年までは、最悪の期間で、「相対」の活動が中断している。昭和十二年二月から活動が再開されるが、昭和十六年一月には清三郎が脳溢血で急死する。その後は、ミチヨの手により、戦時中の昭和十九年四月頒布分で中止のやむなきに至るまで継続される。
戦後になると総頁数一万にも及ぶと言う膨大な資料のため、揃いが二組しか存在しない、と言うのでミチヨが再び世話人となり、全三十四冊の叢書として、昭和二十七〜三十年に掛けて復刻している。しかし、この復刻版も当局の二度に渡る介入により殆ど没収され、全冊揃いは数組しか残存していないと言われている。
通常「相対」を解説する場合、戦前の原本と戦後の復刻版に分けて解説されることが多い。初版ではこれを清三郎の生前と没後、戦後の復刻期の三期に分けて考えることが必要であると説いた。しかし、その後の検討結果と昭和十二年以降の目録の入手により、以下のように分類する方が正しいのではないか、と考えを改めた。
第一期(創始期)は、「相対」が公刊誌として創刊され、官憲とのせめぎ合いに苦労した時期である。苦労の末、大正八年二月に東京地裁で無罪の判決を受け、「相対」が合法化された時点まで、実際には便宜上、活字印刷による雑誌の時代全体を指す。この時期は清三郎の性に関する論文の発表が「相対」の主な役割であった。雑誌【相對】が第一集〜第十三集、【報告】が四冊、【叢書相對】が二編、そして、恐らく、【研究報告】と題されたものが一編、それぞれ刊行されている。
第二期(継続期)は「相対」の主たる資料が発表された時期であり、報告の内容も清三郎の論文を中心としたものから、生の体験手記の発表に移って行った。特に、量的にその感が強い。俗に「相対」として知られる資料の大半はこの時期に発表されたものである。この期間は昭和八年の摘発により、会の活動そのものが中断してしまうまで続いた。活字印刷による雑誌の形態での発表から、ガリ版印刷された半紙による頒布に変わっているのも特徴である。ガリ版による手作りという関係から、長編では数カ月、ものによっては数年掛かりで分割発表されたものもある。従って、この時期の資料に就いては相対の何巻目であるとか何号であるとかの表現は正しくなく、資料名と発表年月が総てである。尚、ガリ版による頒布は昭和に入ってからではないか、との説もあったが、大正時代に始まるのは後述の資料から明かである。
昭和八年の摘発以降中断していた「相対」が再開された昭和十二年から中止のやむなきに至る昭和十九年までを第三期(再開期、終末期)と分類するが、途中の昭和十六年に会の主宰者であった清三郎が急死しているため、敢えて、生前と没後に分けた。初版では清三郎の死が転換点ではないかと考えていたのであるが、諸資料を検討する過程で、清三郎の死がそれ程重要な意味を持っていなかったのではないかと考えるに至った。只、そのこと自体を無視する訳にはいかないので、区分と言う意味で前後期に分けた。この再開後の「相対」は、清三郎の生前からミチヨが主導権を握っているように見えるため、小倉ミチヨの時代と称して良いであろう。
以上、第一期から第三期に発表された「相対」を原相対または原典と称する、との考えが一般的であった。本論でも初版ではそのように分類した。しかし、3.ミチヨの時代で詳述するが、今回入手した昭和十二年以降の目録から、第三期には新資料が殆ど無く、第一期及び二期の復刻再頒布が大半を占めていることが判明した。従って、先の呼称は第一期、第二期、及び第三期の新資料に対するものとし、第三期の再頒布分は二次原典とするのが妥当であると考えるに至った。
戦後、『全世界に完本は僅か二部しかない』
ことを憂い、原典の忠実な復刻を目指して全文を活字化、「相対会研究報告」全三十四冊として刊行した。従って、この復刻版三十四冊には新たな資料は存在しないはずである。この戦後復刻版に関わる期間を第四期(復刻期)とする。
これらのことを踏まえて先のリストを別の言葉で書き換えると、次のようになる。
次章以降、各時期に於ける会の状況と「相対」の書誌に就いて検討する。
大正五年二月の『相対会便り』(復刻版第二十九号収載)に『先達つて差し上げた規定は新しいのですから、良く御らん下さるようにお願い致します。』
とあるので、大正五年二月頃に規程が改定されたことが分かるが、改訂前の規定がどの様なもので、最初に出来たのがいつ頃であったのかは現在の所不明である。会員という言葉は雑誌【相對】の第二集で既に出て来ているので、早ければその時期には会則があったのかも知れない。この新しい規定なるものは【相對】第九集(大正五年一月)が事件になったため、その結果の改訂であろうことが推測できる。
規約として残っている最も古いものは、雑誌【報告】大正五年十一月(次号で十二月であると訂正。復刻版第三十号)の復刻に付随するものとして現れる「第一組合規約」であろう。その後の規約と比較すると、細かい異同があるので、先の二月の新しい規定と同一であったか否かは判然としないが、以下に抜粋してみる。
- 第一條 本組合ハ、相對會員中ノ有志者ヲ以テ組織シ(略)但シ組合員數ハ本組合創立總會当日マデ申込以上増加セサルコト。
- 第二條 小倉清三郎氏ノ研究報告アリタル時ハ本組合ハ其稿本ノ筆寫ヲ得テ組合員數ニ一ヲ加へタル數ヲ謄寫シテ其一部ヲ小倉氏ニ進呈シテ其餘ノ一部宛ヲ各組合員ニ於テ所有スルモノトス。前項ノ謄寫ハ印刷ヲ以テ之ニ代フルコトヲ得。
- 第四條 組合員中ヨリ世話人五名ヲ互撰シ之ニ謄写ソノ他ノ事ヲ委任ス。但シ任期ハ六ケ月トス
- 第五條 世話人ハ右研究報告書ニ所有者ノ氏名を記入シ、之ヲ組合員名簿ト参照シ、番号ヲ附シ、割印ヲ押シテ引キ渡スヘシ。
など、八条に亘る規約が書かれている。
この通りであったならば、相対会の中に別組織として「第一組合」が存在したことになる。或いは、事実上組織を改編して組合制に移行したのかも知れない。が、これは本当のことであろうか。更に、前者であれば、相対会会員であっても組合員ではない人が存在したのであろうか。後者の場合は相対会そのものが名目上は存在しないのであろうか。戦後復刻版の刊行案内を兼ねていた『相対会の栞』では「相対」の正式名称を「相対会第一組合小倉清三郎研究報告」としている。『会費組合費会わせて』
何円とも記述しているので、相対会と第一組合は両立しているように見える。
先の『相対会便り』に、四月に「第四回相対の會」を開催する旨の案内があり、『来会者資格は、従前の通り相対会員及びその配偶者に限ります。』
と明記してある。この時期には、まだ【相對】第九集の判決も出ていない点から推察すると、組合組織にしなければならない程の必要性に迫られているとは思えないので、改訂された規定は第一組合のものではなく、相対会のものであったことが推察される。
確かに復刻版の第三十号収載の『第一組合の印刷物に関する判決文』には「第一組合」とある。これは、雑誌【報告】四冊に対する無罪の判決文なので、名目組織としての第一組合が存在したのは事実であろう。復刻された【報告】の表紙には「会員 号」「第一組合」の文言も見える。 しかし、この後に発行された【叢書相對】(公刊誌)の『挨拶』の中には「相對會員」と言う文言はあっても、「第一組合」や「組合員」のような文言は存在しない。最後の活字資料と思われる【研究報告】の表紙(復刻版第四十三号)にも「第一組合」の文言は無い。
同じ号に『会計報告』なるものも収載されているが、その末尾に『マダ組合費ヲ頂イテ居ル相対会員ノ方デ御加入ニナラナカッタ人ニ返金シテ居マセン』
とあるので、組合に加入しなかった会員が存在した事は確認できる。しかし、そのような会員がそのまま相対会員としてのみ継続していたかどうかは判然としない。確かに、「相対の会」はその後も開催されているので、出席するために、会員のままである必要はあったのかもしれないが、「研究報告」、つまり機関誌を入手できない会員の存在意義は見出せない。さらなる調査検討が必要であろう。
また、【報告】の原本は未見のため確認のしようがないが、ガリ版の初期に配布された資料には、規約に記述されているような、所有者の氏名、或いは戦後の復刻版のような会員番号、も割り印も無い。割り印が確認できる資料は昭和十二年の再開以降のものである。尤も、これは中断前の資料が集まれば遡ることが出来るかも知れないが、初期の資料に存在しないのは事実である。従って、少なくとも初期の第一組合は、組織として機能していたと言うよりも、当局に対する安全弁でしかなかったのではないだろうか。これが機能してくるのは、ミチヨが世話人になって以降のことではないかと推測される。
昭和十二年五月の送付目録の『よもやま』で清三郎が『毎月の月費は会費三円組合費二円、合わせて五円であることは既にご承知の通りであります。』
と述べているように、相対会と第一組合が別の位置付けで存在していたことは間違いない。しかし、先の文に続けて、『毎月の事とて、困難を感ぜらるゝ研究家も居られますので、特に会費を一円に減じ合計三円づゝにして上げている場合もありますが、其れは特別の場合として御らん下さるやう他の諸君に御願ひ申上げます。』
として、旧来のからの会員には会費を割引いていることからも、この時点では、第一組合が主で、相対会は名目だけのものになっていたのではないだろうか。
昭和十二年に「相対」が再開した時の最初の送付目録に記載された『第一組合規約』の最後に『現世話人(三代目) 小倉ミチヨ』
と明記されているので、ミチヨが三人目の世話人であったことが分かる。この時の規約は、『組合員中ヨリ世話人一名乃至五名ヲ互選シテ』
となっているので、五名であるとか互選するとかの文言は残っているが、任期が六ヶ月という期限も無く、一名でも良いことになっているので、結果的には世話人ミチヨの存在を追認しているだけである。このことは、ミチヨが世話人になって以来、一貫していたことであろう。因みに、この後に『創立総会当日迄申込者数百参十名』
とも書いてあるので、第一組合の定員は百三十名であったことになる。
それ以前の世話人に関しては、当初の組合規程では五人選ぶことになっているが、現在氏名が判明しているのは二人だけである。斎藤昌三の「三十六人の好色家」(有光書房、昭和四十八年四月)内の『小倉清三郎』の章に、『この相対会は小倉君が中心となて、沢田五猫庵や橋本春陵君が世話人となって』
とある二名である。弁護士でもあった沢田薫が世話人としての業務をどれだけこなせたのかは不明であるが、事務的な活動と言うよりは、訴訟関係の取りまとめなどを行っていたものと推察される。一方の橋本議一は【報告】が摘発され、裁判になった時に、発行者として起訴されているので、明らかに世話人としての事務を行っていたと考えられる。この時、清三郎は著者として起訴されている。この裁判は結局無罪になり、「相対」が合法化された記念すべきものとなった。この無罪判決が出た頃には、既にミチヨが「相対」の仕事を手伝っており、橋本の後を継いで世話人になったものと思われる。
以降、ミチヨは世話人として相対会(第一組合)の事務一切を仕切り、当人の弁に依れば、中断された「相対」を再開させ、清三郎没後は文字通り孤軍奮闘、昭和十九年の中止に追い込まれるまでその職務を務めることになる。戦後の復刻版作成時にも世話人として会を代表し、結局、一生を「相対」という性体験記録集に捧げたことになる。