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閑話究題 XX文学の館 体験記録 相対会

「赤い帽子の女」と芥川龍之介

「赤い帽子の女」二次原本

ボケーっとしていたら何故か急に、「赤い帽子の女」に就いて調べてみたくなった。 「赤い帽子の女」【相対】に発表された芥川龍之介のものではないかとされる性体験手記である。 本格的に調査考察したならば片篇集に載せるべきであろうが、片手間に行ったのでこちらに載せることにした(本当はきちんと調べたいのだが…)。 また、梗概に就いても省くので、後述のページを参照して頂きたい。

手許にある文献は見尽くしているし、引っぱり出すのが面倒くさいので Web で検索してみた。 「赤い帽子の女」の他に関連する重要フレーズ、『小倉清三郎』『相対会』、更に昔から著名な資料「田原安江」「避難宿の出来事」も検索してみたが、引掛かったページは新刊、古書を問わず販売目録やリスト、及び当サイトの該当ページを除くと少ししか無い。 ホームページを公開している人の年令や興味、世間の認知度から言っても仕方ないとは思えども、何か寂しい気分であった。 一方本題の「赤い帽子の女」はかなりの数、とは言っても百ちょっとである、が引掛かった。 但し、ヤン・フェルメール作の同タイトルの絵画、西村京太郎の「特急北アルプス殺人事件」のテレビ化の折のサブタイトル、そして本資料を映画化した神代辰巳監督作品がかなりの数を占めていた。 それでも本資料がらみのページも他のものに較べるとそこそこピックアップされた。 しかし、その内容は、と言えば…

最初にまともな部類から紹介する。五味氏の宝物 引用文献一覧

赤い帽子の女
黙陽著。1913年(大正2) 性研究グループ相対会(主宰・小倉清三郎=哲学者)の機関誌『相対』に発表された手記。芥川龍之介は実際にこの会の会員だったので、「黙陽」は彼のペンネームという説が有力。

というのがあった。この『五味氏の宝物』は佐野良二氏の創作小説で、春本・春画のコレクターである老人五味氏をめぐる騒動を綴っている。 その五味氏に作品の中で

「これは芥川龍之介の作といわれる『赤い帽子の女』です」
「へえ、芥川龍之介がそんなの書いたんですか」
「真偽のほどは確かではない。読んで自分で判断するしかないねえ」

と言わせている通り、すごぶるまともである。惜しむらくは大正二年が「赤い帽子の女」の発表時期のように取れる点と、この資料が発表された時は既に機関誌と言える様な形態になっていなかった個所であろうか。(当館からの情報提供により、現在は訂正されています。平成十四年十二月二十日)

相対に就いての概略は地下本基礎講座 第四回 性体験手記 小倉清三郎と「相対」、詳細は「相対」異聞(改訂版)を参照して頂くとして、 かい摘んで説明すれば次のようになる。 東京帝国大学(現東京大学)の哲学科に在籍していた小倉清三郎が主宰した性研究の会、相対会の機関誌として大正二年に創刊されたのが【相対】である。 その後【報告】【叢書相対】【研究報告】(この誌名のものが在るか否かは確証がない)、と誌名を替えながら大正九年まで続いたが、当局による弾圧が厳しく会員数も減少、同年か翌十年頃からガリ版印刷による資料の頒布に変わっていった。 一時期(昭和八年〜十一年)資料の頒布も出来ない状態にあったが、昭和十二年から当局の黙認という形で再開する。昭和十六年に小倉清三郎が急死するが、妻のミチヨがその意志を受け継ぎ、昭和十九年四月まで刊行は続いた。 最盛期には三百(?)人程いた会員も最後には六十人程度(ミチヨは六十三人と述べている)になっていた。 戦後になってミチヨが世話人となり、昭和二十七〜三十年にかけて三十四冊の叢書として復刻したさいの名称が{相対会研究報告}である。 色々と言われているが、復刻時に原資料の揃いは既に無く、復刻版も十組程度が現存するだけであろう。

当局との争いは色々あり、出版法違反で何回も摘発され、裁判も数度行われているが、戦前は「印刷物ではあっても出版物ではない」と言う何だか訳の分からない理由で無罪になっている(もう少し調査が必要かと)。 戦後は復刻版が正式裁判になり、こちらは最高裁で有罪が確定している。

と言うことで次のページを見てみると、 あの偉人たちの知られざる素顔と題するページにはお馴染みの偉人達のエピソードが披瀝されているが、中に「あの芥川龍之介の知られざる趣味」と題したものがあり

「相対会」とは、知る人ぞ知る、大正から昭和初期にかけてあったSEX研究会。 性研究家・小倉清三朗が主催したグループで、会員は200〜500人。会員にはなんと芥川龍之介、坪内逍遙、大杉栄、伊藤野枝、平塚雷鳥ほか各界の著名人たちが多く名をつらねていました。 会員の性体験の告白を掲載した『相対会研究報告』には、…略… 『赤い帽子の女』という作品には…略…などとあります。作者は「黙陽」と表記されておりますが、これ、じつは芥川龍之介のペンネームといわれています。 『相対会研究報告』は大正2年から刊行されましたが、昭和11年にワイセツ物とみなす判決がくだり、廃刊となってしまいました。

先の概略説明と比較して頂ければ、館主が何を言いたいかが分かるであろう。さらに、この文章で一番の問題点は「赤い帽子の女」という作品、としていることであろうか。この作品という言葉がくせ者であるが、理由は後述する。

掲示板(の過去ログ?)にはこんなものがあった。掲示板なので敢えて引用先は書かない。ご自身で検索してみて下さい。掲示板と言う性格上何時まで残っているのか分りませんが。

●●近代作家の裏話スレッド●●
有名な作家の面白い裏話があればお願いします。 例えば、…略…「芥川龍之介は「相対会」というSEX研究会に所属していて、その会の相対会研究報告という会報に「黙陽」というペンネームでかなり過激な作品を書いていた。そして、しまいには発禁にされてしまった。」 …略…ちなみに、上の…略…例は事実ですよ。

何時「赤い帽子の女」の作者が芥川龍之介であると言うことが事実になったのか寡聞にして知らないが、世間ではそう言うことになっているのであろうか。 同様に、この資料が発禁になった事実も無いが、やはり常識なのだろうか。

別の掲示板では、ちょこっと出てきた「赤い帽子の女」って、と言う疑問に対して

『↓「赤い帽子の女」の説明、芥川竜之介の作品といわれる、その性描写があまりにも強烈なため戦前は出版法違反で摘発され戦後復刻された際も伏字だらけの出版となった、原本は国内2セットしかない「幻の奇書」 …略…Web新潮社より完全版CDブックあり。』

出版法違反云々は先と同様。伏せ字だらけの戦後復刻版とは何のことを指しているのであろうか。

  1. 小倉ミチヨ自身による復刻版{相対会研究報告}三十四冊(昭和二十七九月 〜 三十年十二月)
  2. 雑誌【えろちか】の臨時増刊『性探求の金字塔《相対会研究報告》』(三崎書房、昭和四七年六月)
  3. 美学館版の単行本「赤い帽子の女」(1980年8月)
  4. 美学館による復刻版{相対会研究報告}の再復刻版三十四冊
  5. 美学館版の再復刻版を再編集した銀座書館の{相対会研究報告}二冊(1986年12月)
  6. 河出文庫、相対レポート・セレクション 5「赤い帽子の女」(河出書房新社、1999年8月)
  7. 国会図書館のWeb-OPACで検索して見るともう少しあるようであるが、所見本は以上である。 Web新潮を持ち出しているところを見ると、恐らく美学館版の単行本のことであろう。因みに【えろちか】と美学館版単行本以外のものは伏せ字が無い完全なものである。 一部分を除けば…(「とほほな「相対」再復刻版」を参照)。

    原本が二セットと言うのは戦後の復刻版の刊行案内(以後「相対会の栞」と記述する)が出た際に、裏表紙の見返部分の宣伝の様なものに記載されていたことであり、案内の本文には全揃いは無いはず、と明記されている。 そもそも、国内に、と断るまでもなく、原典が国外にあるとは思えない。因みに、先の宣伝では『全世界に完本は僅か二組』となっている。但し、戦後の復刻版に関しては国外に持ち出した人がいないとは断定しないが…

    その完全版CDブックなるものを刊行したWeb新潮社のページには「赤い帽子の女」に就いての解説がある。内容も一部公開されている。長文なので、詳細はリンクを辿って見て頂くとして、要点のみを引用する(「Web新潮社」のページは「新潮社」に変り、該当の記事は現在ありません。平成十四年十二月二十日)

    『赤い帽子の女』は、大正時代の初期に、「相対会」が発行する性の研究報告誌『相対』に、「黙陽」のペンネームで発表されている(後にその解説として、『赤い帽子の女を中心として』が、某々生の名前で掲載された)。 「相対会」は、哲学者の小倉清三郎が「健全な人間の正常な性的生活を出来るだけ奥深く研究して行くため」に発足させたサークルで、大正2年に会報の『相対』を創刊、性に関する様々な種類の文献を集め、会員の性体験も載せた。…略… 敬虔なクリスチャンである小倉は、東京帝国大学の哲学科を出た後、本格的な性の科学的研究に取り組んでいるが、その熱意は凄まじく、掘り起こした性文献は一万ページ以上に及び、性文献のみならず性具まで収集、研究したという。

    ここでも五味氏の宝物 引用文献一覧と同様に大正の初期に発表されたことになっている。 雑誌である【相対】の創刊時期とその中の一資料に過ぎない「赤い帽子の女」の発表時期が混同されているのではないだろうか。 更に言えば、復刻版の刊行形態が影響しているのかも知れないが、【相対】の原典も終始あの様な形の単行本或いは雑誌として刊行されていた、と誤解されているのではないだろうかと不安になって来る。 薀蓄を語っている人で【相対】の原本を見たことのある人がいったい何人いるのだろうか?(標題下のカットに「赤い帽子の女」のガリ版原本の一部を掲げておく)

    「赤い帽子の女」が発表された時期を明確に解説したものを今まで見たことがないので記録として残しておく。 本資料はガリ版で頒布されているので全編がまとめて発表された訳ではないが、昭和十五年末から昭和十六年四月に掛けて分割して頒布された。 発表時期が意外なほど遅いのに驚かれた方もあるのではないだろうか。

    補足)昭和十五年にはまだ小倉清三郎も存命であり、昭和十七年頃に「赤い帽子の女を中心として」が出されていたので、これを初出と考えたのであるが、この当時既に研究報告の作製、頒布は小倉ミチヨが一手に行っており、清三郎は関与していなかったらしいことが諸資料から見えて来だしたので、初出説は保留とする。深く進めば進ほど謎が解ける所か、逆に拡大して行き頭が痛い。(平成十三年六月十一日)

    追記「赤い帽子の女を中心として」の原本を見る機会があり、その巻頭には「赤い帽子の女」は大正十五年の資料であることが書かれていた。復刻版の同じ個所は年代だけが省かれており、館主の推測は完全な勇み足であった。陳謝。(平成十三年八月十六日)

    追記「相對報告初出大年表」なるものが出た。館主も資料を提供しているのであるが、この年表の元となった「赤い帽子」の原本には、大正十五年一月〜五月の日付が入っていた。これで初出の時期は確定、余計なことを言って混乱させて済みませんでした。(平成十三年十二月二十三日)

    もう一点、掘り起こした性文献は一万ページ以上と解説されているが、この文章では、既に存在するが埋もれていた文献(資料)を蒐集したら一万頁以上になった、と読めるが、そうではない。 【相対】の原典が一万頁に及ぶことは先の「相対会の栞」にも書かれているが、これはあくまでも原典の総ページ数であって、発掘したものではない。 【相対】の中には参考品として所謂猥本などの既存資料も載録されているが、大半は清三郎の論文と会員の手記を中心にした資料である。 論文は清三郎の考察であり、手記は会員の投稿であろうから、掘り起こした性文献、という表現は正しくない。

    略…果たしてこの『赤い帽子の女』の作者が芥川龍之介なのかどうか。 作家の矢切隆之氏によれば、否定説、肯定説の両説があるという。 「国文学者の吉田精一氏などは否定説で、『彼なら絶対に使わないようなボキャブラリー、たとえば“春的”などという言葉、こんなのは芥川のようなデリケートな人が使う言葉じゃないでしょう』と昔の週刊誌で語っています。 『赤い帽子の女』にはドイツの割合細かな地理まで書かれているのに、芥川はドイツに行ったことがない実際にベルリンを歩いた人でなければあそこまで書けないのではないかというのも、否定説の根拠のひとつです」

    ドイツへ行ったこともないのに云々はよく引き合いに出されるが、元々誰の発言なのであろうか? 芥川程の作家であれば行ったことはなくとも描写できる、と言う反論もあるようだが、この発言も最初は誰が言ったのであろうか?

    一方、肯定説の根拠はと言えば、「実際に芥川が『相対会』の会員だったということですね。 同じく会員だった詩人の金子光晴は、『私も書いた。芥川が書いた可能性もある』という消極的な肯定説を述べている。 さらに傍証としてあげられているのは、小倉ミチヨ自身が、『芥川もある女との性生活を書いた』と語っていることです」

    この小倉ミチヨの発言の出典はマジで知りたい!!

    真相はいまだ“藪の中”のようだが、実はその方面の研究がほとんど行われずにきたこと自体が問題だと、矢切氏は言う。 「普通の文学に比べて、性を扱う小説やポルノはレベルが低いという風潮が、ことにアカデミズムの中にあります。 あの芥川がポルノを書くはずがないと、研究者は頭から決め込んでいる。だけど、芥川は春本とか浮世絵のコレクターだったという説もあるし、上海で娼婦を買って梅毒の恐怖におののいたとも言われています。 私自身は、『赤い帽子の女』の作者が芥川であるという説には否定的ですが、本気で研究してみると意外な結果が出るかもしれませんね」

    梅毒の恐怖におののいたりしていて、ポルノなんかが書けるのか!(と言うのは戯れ言ですが…)

    この解説で終始一貫している前提は、先にも記した「赤い帽子の女」という作品、という点である。 行ったことがなければ書けない、あの芥川がポルノを書くはずがない、など明らかに創作を前提とした発言である。 しかし、よく考えて頂きたいのは、【相対】或いは{相対会研究報告}とはそもそも何であったのか、そこに発表された資料とはいったい何なのか、と言うことである。

    雑誌時代の【相対】は清三郎の論述が中心であり、後の資料に該当するものは数編だけである。それも論述に付随する資料ということで両者は不可分の関係にあった。 ガリ版の時代になると論文は論文として発表し続けているが、資料は資料として単独で発表されるようになり、清三郎の簡単なコメントが付くだけになってくる。しかし、日記であれ、手記であれ何れも事実を元にした体験記であることに変わりはない。 直接論文に引用しなくとも、或いは直ぐに使用しなくとも、論文を組み立てる上での基礎資料であることに変わりはない。 従って、売らんが為に創作の体験手記を載せるなどと言うことはあり得ない。清三郎存命中であればなおさらである。また、昭和に入ってからは商売になる程会員がいた訳でもない。

    勿論、資料の提供者が偽って創作を体験手記だと言うことはあるかもしれない。 相対会という組織が、小倉清三郎という人物がそのような愚行を許す雰囲気を持っていたとは思えないが、それでもそのような事をしたとしよう。 手記の内容が、単なる娼婦との変わった体験などのようなものであれば、その真贋を見分けるのは難しいであろう。 だが、この手記は第一次世界大戦直後のドイツのベルリンが舞台である。資料の提供者が当時ドイツに行ったことがあるか否かを確認するのはそう難しいことではないであろう。 しかも、資料の提供者黙陽は他にも「田原安江」「暗色の女の群れ」などの大物の手記を提供しており、有力メンバーであったことが推察できる。 つまり、正体がハッキリしていたであろうことは想像に難くない。その様な人物が創作したものを提供したとは考え難い。 そもそも、黙陽=芥川説が成り立たなければ、創作であるか否かを考える必要もなく、多少の粉飾はあるかもしれないが、素直に実体験の記録として捉え、【相対】のあり方となんら矛盾を生じない。

    先の小倉ミチヨの話が事実であるとしても、女との性生活を書いたのであれば創作ではなく、やはり手記になるであろう。 私小説という分野もあるにはあるが、【相対】は文芸誌ではないので、小説にしなければならない必然性が全く存在しない。

    この芥川説が世上に流布するようになったのはいつごろからであろうか。 昭和五十五年七月に自由国民社から刊行された「日本の奇書七十七冊」の『近代編』に三木幹夫氏の『赤い帽子の女』に関する解題があり、

    『週間文春』昭和四七年七月二四日号が「永井荷風『四畳半襖の下張』よりすごい!芥川竜之助の秘稿?『赤い帽子の女』」という”特ダネ”記事を載せた。

    としている。該当の記事は未見であるが、他の解題にも同様な記述があるので結構有名なのであろう。 しかし、先に記した【えろちか】の臨時増刊はその一月前の六月に発行されており、資料として『赤い帽子の女』を取り上げている(伏せ字満載であるが全文掲載)。芥川との関連に就いても既に触れられている。従って、この「週間文春」が芥川説の初出ではない。一方、三木氏は解題の中で

    記者の情報源の原点が推察できたからである。二二年の夏、某週刊誌が誤報したのが一五年後に伝聞で”特ダネ”に化けたらしい。」

    と続けている。昭和二十二年の誤報記事が何であるのかはこれでは分からないが、氏は元々新聞記者であり、カストリ雑誌や発禁本に関する著書も数冊ある、研究者としても著名な人なので、かなり確度の高い解説であると思われる。

    【えろちか】は雑誌そのものが摘発を受けたこともあるし、同じ出版社が刊行した「壇ノ浦夜合戦記」等も摘発を受けて世間を騒がしていた事実がある。 そこから出た「相対」の特集号が注目を浴びないはずが無く、故意か偶然かそれに触発された記者が識者のコメントを元にして記事にしたのではあるまいか。 従って、旧聞の記事を引っ張り出したのは文春ではなく、【えろちか】なのであろう。或いは【えろちか】が参考にした更に別な資料があるのかもしれない。

    と、ここまで来たら、やはり文献を引っぱり出さないと、細かい年代などは忘れていることを思い知らされる。記憶術の大家ではないので数字を覚えきれないのは良しとしても、どの文献に書いてあったかを思い出すのに時間が掛かったのには参った。 結局関連文献を片っ端から引っぱり出すはめに陥ってしまった。最近はそんなことの繰り返しのような気がする。気だけではなく当館を開館してからずっとそんな状態が……

    愚痴はさておき、こんなものもあった。CD版「赤い帽子の女」を出した同じ新潮社の【新潮45】1999年2月号の記事の「芥川龍之介マル秘ポルノ『田原安江』  矢切 隆之」である。 記事の内容が分からないので推測でしかないが、黙陽=芥川であるならば、同じ黙陽名で発表された『田原安江』も当然芥川の作であろう、と言うことではなかろうか。 当然と言えば当然の推論であるが、こちらの『田原安江』は戦前から著名なもので、本当の地下本にも流用されている程である。 しかし、この『田原安江』が芥川の作であるかもしれない、という話は、当然と言えば当然だが、当時も全く出ていず、黙陽=芥川であるならば『赤い帽子の女』以前に「幻の春本『田原安江』は芥川龍之介の秘作だった」となるはずである。 相対や地下本に詳しければそれ以外の見出しはあり得ない。正に【新潮45】のこの記事が最初に出るべきタイトルとして相応しいのである。

    現実はそうではなかった。つまり相対や地下本に詳しい所謂事情通がこの『赤い帽子の女』芥川説には絡んでいないことの査証である。 多分に心情的な面はあるにしても、識者の見解は概ね否定的である。が、先の掲示板のように事実として捉えている人がいるのも又現実である。 先の「週間文春」、及び昭和二十二年発行の某雑誌(何だろうなぁ)の記事を読むことが出来れば、何をどう勘違いしているのかの分析も可能かと思うが、先ずは手に入れることが先決である。雑誌、特に週刊誌の入手は極めて難しいのであるが…。

    お詫び:事実誤認の個所があったため一部修正しています。(平成十三年四月十五日)


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